大覚寺のご紹介

人生を健やかに生きていくための説法を
毎月、御紹介していきたいと思います。

2008年(平成20年)10月のミニミニ法話・お説教

2008年(平成20年)10月

玄禮和尚のお説法

2008年(平成20年)10月

~ 第007回 「人生という旅路」 ~

 仕事柄、よく旅に出ます。この秋の彼岸中にも、広島と長崎へ説教と講演の旅に出かけました。
両方の都市の爆心地にある平和公園で読経回向し、奇しくも慰霊の旅となりました。

 旅に出かけると、その土地の風景に心も弾みます。毎日の生活は、いうなれば生活の垢のようなものを身にこびりつかせて送っているようなものです。旅はそ の垢を、さっぱりと洗い流してくれます。
 
 旅から帰ると、またふたたび繰り返される単調な日々が待っていますけれど、旅に出ることによってその単調さも、次の旅まで我慢できる気持ちになります。

 昨日までの生活が、旅によって新鮮で楽しい幾日かを見せてくれて、旅から帰ると再び前と同じくそれほど変わり映えしない生活が待っています。
 変わり映えはしないけれど、「我が家に帰れる」という期待があります。帰るところのない旅は、さびしいものですね。

 生前の母親がご近所の方々と一泊のたびに出て、おみやげを下げて帰ってくるなり、
「ああ、やっぱり我が家が一番落ち着いていいなあ!」と言っていたのを思い出します。
帰るところがあるから楽しみも倍増するのです。
 
 詩人の高見淳さんが、こんな詩を残しています。
 「 帰れるから旅は楽しいのであり 旅の寂しさを楽しめるのも 我が家にいつかは戻れるからである」

 この詩は、電車や車に乗ってでかける、そんな旅を書いているのではありません。
自然へ帰る旅、つまり「お浄土へ帰る」死の旅を書いているのです。若くして癌で亡くなった詩人だからこそ、帰る我が家のあることに安心しているのです。
 
 今日、こうして一日生きていられる、ということは本当に尊いことなのです。
生きていることを、あたりまえだと思わずに、いまさらのように「今日の命」を愛しく受け取ることが人間としての正しい生き方だと思います。

 そして、人生という旅が終わったら、私たちには確実に帰っていけるところがあるのです。
お浄土という「魂のふるさと」が。
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