大覚寺のご紹介

人生を健やかに生きていくための説法を
毎月、御紹介していきたいと思います。

2008年(平成20年)4月のミニミニ法話・お説教

2008年(平成20年) 4月

玄禮和尚のお説法

2008年(平成20年) 4月

~馬齢・犬齢~  (『花影抄』 P204)

むかしむかし。
神さまがこの世を治めておられたころ、生きものの寿命がまだ定められていなかったので、これを決めてやろうと考えて、お触れを出した。

「すべての生きものに告ぐ。寿命を決めるゆえ、早々に参集せよ。命の長さは到着順に与える」

これを見て、最初にやってきたのは人間だった。

「一番に到着するとは感心である。褒美に寿命をたくさん与えてやろう。人間の寿命は五十年とする。」

かくして、人間五十年はこの時に決定した。ところが、人間は不満顔であった。一番に駆けつけながら、たった五十年とはそりゃあんまりだ。神も仏もあるもんか―ふくれっ面でふてくされていた。神さまも決めかねていると、次にやってきたのは馬であった。

「おお、馬か。ウマいところへ来た。人間は五十年の寿命でも不満顔なので困っておった。馬は三十年でどうじゃ」

馬はそれを聞くと、泣いて訴えた。

「神さま。私は三十年も生きたくありません。生まれてから死ぬまで立ちづめで働き、ムチで叩かれて走り続けるのは辛いことです。もっと短くして下さい」

「欲のないヤツだ。何年ぐらいが望みか」

「せいぜい五、六年で結構です」

「そういう訳にもいくまい。では、十年にしよう」

こうして、馬の寿命は十年と決まった。

「人間よ。馬に与えるつもりの寿命が二十年余った。さきほどの五十年にこれを足して、七十年でどうか」

それでも人間は不満顔であった。馬の余りをもらって喜べるか、という顔つきでソッポを向いていた。神さまは、また困ってしまった。
三番目に犬がやってきた。

「やあ、犬よ。よいところへ来てくれた。人間がなかなか承知しないので困っておった。犬は三着なので、二十年の寿命をやろう」

すると、犬も悲しげに泣いた。

「神さま。それはあまりにも残酷です。小さい時はかわいがってもらえるが、大きくなると見向きもされず、石を投げられ、棒で叩かれ、追われ追われて一生を終わります。そんな人生、いや犬生は五、六年で充分です」

「そうか。欲のないことだ。では犬も十年にしよう」

 こうして、犬の寿命も十年と決まった。余った十年の命を、これも人間に与えることにしたので、結局、人生八十年となった。めでたし、めでたし。

 五十歳を過ぎると「馬齢を重ねる」というのは、馬からもらった歳だからである。七十歳を超えると「犬齢」と呼ぶのは、犬の寿命の余りの歳だからである―とは、どの辞書にも書いてない。
 この話、永観堂禅林寺の第八十七世管長、森準玄上人からお聞きしたのだが、五十歳をすぎて、なすこともなく老いることを戒めた説法として、妙に説得力があって、おもしろい。
 人間の寿命が長くなるのは、それだけ老いの時間が長くなることだ。

「無益のことを言い、無益のことを思惟して時を移すのみならず、日を消し、月をわたりして、一生を送る。もっとも愚かなり」

と兼好法師が『徒然草』に書いている。

 どうでもいいようなことに平気で時間を浪費しているくせに、肝心なことには「暇がない」などと嘆いたりする。そんな私たちに「時間をムダにするな」と警告しているのである。
いたずらに「馬齢」を重ねず、「犬齢」を過ごさず、自分にしかできない仕事や趣味を見つけ、それに日々励むことができれば、「日々是好日」となるにちがいない。

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